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幸せへと続く編み物のススメ

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ニューヨークの地下鉄の遅延。車内で首にほてりを感じた私は、ジャケットのチャックを開けてのどにひんやりとした手を押し当てました。地下に足止めされたまま10分が過ぎ、スノーブーツの中で私のつま先は神経質に、小刻みに音を立てています。隣の女性はといえば、1分間に5回くらいの勢いで深いため息をつき、時計に目をやっている様子。時はラッシュアワーで、まさに誰もがラッシュする(先を急ぐ)時間帯です。1日のストレスを明日に持ち越さないために、会社から離れて、家へ、友人の元へ、安らげる場所へと急ぎます。私は車掌や鉄道システム、そしてニューヨークシティを恨めしく思いながら、(心の中で)拳を振り回しました。少しは気が晴れましたが、それだけ。代わりに編み針を引っ張り出しました。
私が編み物を始めたのはほんの1か月前のこと。オートミールカラーのマフラーはようやく半分まで編み上がった状態です。あまり上手に編めておらず、マフラー、あるいはマフラーの断片とも言うべきその代物は、編み目を落とした部分にあちこち隙間ができてしまっている始末。横幅にムラができ、砂時計のような形になり始めていました。私は普段、出しっぱなしの椅子や端が揃っていないブラインドのように、防げたはずのこの手の「アラ」が気になってしまう性質で、胃が締め付けられるような何とも言えない感覚に襲われるのですが、このマフラーに関しては違いました。手触りはとても柔らかいし、時間をかけてここまで編み上げたのです。多少失敗したからといってそこで止めることなどできるでしょうか?

編み始め

すべての始まりは(別の日の)地下鉄での出来事。年配のカップルが車両を挟んで向かい合い、協力して編み物をしている姿を目にしたときのことです。女性はブランケットらしきものを編んでいました。私は思い切ってこのカップルに近づき、彼女たちの作り出すのどかな光景を自分の好奇心のために台無しにしながら、「何を作っているのですか」「ここまで作るのにどのくらい時間がかかりましたか」「私にも習うことができますか」「どうにかして習えないでしょうか」「簡単でしたか」「難しかったですか」「習うべきだと思いますか」といった質問を矢継ぎ早に浴びせかけました。カップルは実に辛抱強くかつ真剣に質問に答えてくれたばかりか、とても穏やかな笑みを浮かべていました。その2人を見て私は、編み物がある種の精神安定剤になっているに違いないとすぐさま確信しました。電車を降り、閉まるドアから離れて立った私は、カップルを乗せたAトレインがアッパー・ウエスト・サイドに向かって猛スピードで走り去るのを見送ったのでした。
その1週間後には、編み針を1組と毛糸を2玉手に入れていました。当時は冬のニューヨークでマフラーを持っていなかった私。実利にかなった目標をあらかじめ持つことは、何かを始め、続けていくのに役立つと考えました。平日は日中働き、夜はテレビで最新情報を追う。週末は寝ているか、たまに出かけて友人と過ごす。通勤時間には本や雑誌を読み、暇なときはたいてい料理を作っているか食べている。それが私の生活。でも、私が最後に新しいスキルを身に付けたのはいつのことだったろう。“何か新しいことをしている”と感じさせるような、触覚に訴える、関節がしびれるような何か。そこで私は、「今年は趣味の年にする」とルームメートに宣言したのです。

細かいことにこだわらない

一般的なミレニアル世代の例に漏れず、私もスマートフォンで編み方を学びました。妹にFaceTimeで相談し(去年の夏に独学で編み物を覚えてマフラーを作った彼女は、言うなれば、私より「マフラー1枚半分」上手だった)、YouTubeのチュートリアルを見ました。2時間で「キャストオン」(編み物用語で編み始めの糸のかけ方のこと)までいったものの、結局3回やり直しました(1回目は編み目がきつすぎ、2回目はゆるすぎたためです)。せっかく編んだものをほどくのは面倒でしたが、納得もしていました。時間をムダにしたわけではなく、やればやるほど上達していったからです。まだ見せられる成果はあげていませんが、それは問題ではありません。やり直すたび、それまでの努力はスキルを上達させるための過程であったこと、スキルとは必ずしもはっきりと目に見えるものではないことに改めて気付きました。やり直し3回目ともなると、それまでよりも編み目を楽に作れるようになり、両手の動きもスムーズに連動するように。自分の指ばかりに気を取られることもなくなり、「ひねって、通して、ひっかけて、引き出す」とそれぞれの動作を小声でつぶやくようになりました。編みながら会話をし、テレビを見ることもできるようになり、プロには到底及びませんが、徐々に上達していきました。
“暇を持て余す”とはどういうことか、結果的につまらない人間になってしまうのか、それはよくわかりません。でも私はこれまで、ただボーっと座って無為に時間を過ごしたことは一度もありません。心配性だ、落ち着きがない人だと呼ばれてもかまいません。どちらも私の性格です。トランプでも、本でも、携帯電話でも、手元に置けるあるいは手を使う実践的な娯楽をずっと好んできた私にとって、編み物はまさに意に適うものでした。編み針を肌身離さず持ち歩くようになり、病院の待合室でさっと取り出したり、寝る前にこっそり数目だけ進めたりしています。そして地下鉄は今や、私にとって移動スタジオとなりました。

編み物に言葉は不要...

編み物は手仕事を通じた息抜きであり、自分の世界を創り出す安全な逃避手段となりました。ものすごく頭を使わなければならないようなことはほとんどなく、自分の手と密接につながる感覚を味わえるのは特権のようであり、午後のおやつのようでもあります。音楽を聴くもよし、会話に聞き耳を立てるもよし、自らが生み出した静けさの中に身を置くもよし。また、「消費」(私が朝食に買うバナナや、そのバナナを買う間に次々とタップするインスタグラムのストーリーといったもの)で構成されている世界にあって、自分の眼前に顕在化する何かを自分が生み出し、目を向けることには特別な何かがあるのです。乗っていた地下鉄がイースト川の地下のどこかで停車したので、私はリュックを開けて編み針を取り出しました。自宅からは1時間の距離、じわじわと気温が上がってくる混雑した車内に閉じ込められていましたが、少なくともしばらくの間楽しく気を紛らわせることができました。
この記事はFood52のValerio Farrisが執筆し、NewsCredパブリッシャーネットワークを通じてライセンスされたものです。ライセンスに関するお問い合わせはlegal@newscred.comにお願いいたします。
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