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連載 ニッポン化粧ヒストリー 第2回 江戸のヘアカタログ ~遊女から生まれるトレンド

日本の化粧カルチャーにおけるユニークな風習や技術から、毎回ひとつのテーマを掘り下げてご紹介する本企画。日本初のエステの話に続いて、第2回は「日本髪」がテーマです。長くて艶やかな黒髪は、古くから美人の条件のひとつ。そこに「結い」の要素が加わった江戸時代、現代でも花嫁の髪型の定番となっている島田髷を含む、4つのスタイルが完成しました。人気の出る髪型の発信源にはいつも、遊女の姿がありました。
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江戸の新吉原江戸町(現在の台東区千束四丁目)にあった妓楼・玉屋でトップ人気を競った高位の遊女3人。大きく結い上げた髪に、べっ甲の櫛やかんざしを何本も飾り立てている。 新吉原江戸町 玉屋内朝妻・花紫・誰袖 歌川豊国/1827年

ダウンからアップスタイルへ

平安から室町時代まで、女性の髪型といえば、後ろに長く垂らした垂髪(すいはつ)が主流でした。女性が、男性の髷(まげ)をならって高い位置で髪を結いはじめたのは、安土桃山時代あたりから。女歌舞伎や遊女たちがトレンドセッターとなり、女性の髪型はどんどん華麗に進化を遂げていきます。
江戸時代は日本の髪型史でみても、華やかなスタイルが多く出揃った時代です。バリエーションは数え上げると数百種に及びますが、髷の形で主に4つのグループに大別することができます。
まず一つ目は、遊女の間で江戸初期に広がった「兵庫髷(ひょうごまげ)」。当初はすっきりシンプルな縦結いでしたが、そのうち横結いとなり、どんどん派手やかに。大きく結った髪に櫛やかんざしを飾り立て、まるで後光が差しているかのようなスタイルで最盛期を迎えます。続いて登場したのが、日本髪の代表格にもなっている「島田髷(しまだまげ)」です。こちらも遊女が好んで結ったスタイルで、もとは若衆歌舞伎の美少年の髪型がヒントになったといいます。その派手やかさに憧れた町娘たちが真似をしはじめて、島田髷は大ブレイク。未婚女性の定番スタイルで、花嫁の髪型として知られる「文金高島田」もこの系統に入ります。
兵庫髷のバリエーション。(左から)初期の縦兵庫(寛永~元禄)、江戸の吉原の横兵庫(文化・文政)、京都の島原の横兵庫(文化・文政)
華やかな島田髷。髱(たぼ)や鬢(びん)の形でバリエーション豊かに。(左から)元禄島田髷(元禄)、春信風島田(明和年間)、燈篭鬢・島田髷(安永~寛政)
「勝山髷(かつやままげ)」は、打って変わって武家のオーラ漂う上品な髪型です。勝山というのは、吉原の遊女の名前。勝山は、普段から凛々しいスタイルが評判のハンサムな女性で、同性のファンも多かったとか。媚びない女の象徴的なスタイルとして、島田髷と人気を二分しました。
島田髷と勝山髷が若い女性のものだとしたら、既婚女性がよく結っていたのは、上流階級で結われていた「笄髷(こうがいまげ)」でした。笄とは、髪掻(かみかき)から転じた小道具。長いダウンヘアをくるくると巻いてまとめる、使い方としてはヘアスティックに近いものです。江戸時代中期に、島田髷の要素とブレンドした“先笄(さっこう)”とよばれる髪型が定着、裕福なおかみさんたちが好んで結いました。一方、勝山髷の要素を取り込んだ“両輪(りょうわ)”は年配女性の間で浸透しました。このように、髪型によって年齢や職業、身分、未婚・既婚などのステータスを読み取ることができたのも、日本髪の特徴といえます。
江戸時代後期の美容本『都風俗化粧伝』(上・中・下全3巻)。髪型と顔立ちに合わせたメークアップ法を指南。
[左]横兵庫髷。「このような顔立ちは、おしろいも紅も濃いのが似合う。眉は細いほうがいい」[中央]奴島田髷。「おしろいは薄いほうが似合う。頬には薄く紅をさし、眉は太く短いのがいい」[右]勝山髷。「おしろいは普段通りに。髪の生え際から頬にかけて、薄く生燕脂(しょうえんじ)か紅をさす。眉は三日月形に少し長く、口は小さくつくるのがいい」

江戸のヘアスタイリストとシャンプー事情

江戸中期の安永(1772~1781年)になると、日本髪はいよいよプロの手を借りないと完成しないほど技巧を極めていきます。ここで登場するのが、今でいうヘアスタイリスト=「女髪結い」です。女髪結いは店を持たない出張サービス。料金は1回あたり200文(=約6,500円)。男性の髪結いや床屋が約30文、お蕎麦1杯が16文だったので、女髪結いはやはり贅沢なおしゃれでした。江戸の贅沢、と聞いて思い出すのは「奢侈禁止令」ですが、幕府は女髪結いにもたびたび禁令を出しています。しかし、女髪結いの数はむしろ増える一方。幕府の力をもってしても、女性のおしゃれ熱を鎮めることはできなかったようです。
髪型の進化に伴い、髪飾りもさまざまにバリエーションを広げます。なかでも庶民の女性たちが最も憧れた高級アクセサリーは、べっ甲の櫛でした。これを2枚髪に飾るのは遊女特有のスタイルで、1枚は自分のため、もう1枚は客の髪を梳くためだったのが、いつしか飾りとして定着しました。
べっ甲は、まだらの黒い斑(ふ)が少ないほど上質。高価なものは“お米数ヵ月分”ともいわれた。 ふ入りべっ甲製櫛・簪・笄/江戸時代後期
女髪結いを描いた浮世絵。 葉うた虎之巻/豊原国周 1862年
髪を結うのがひと仕事なら、固めた髪を洗うのはもっと大変でした。当時の女性たちはどのように髪を洗っていたのでしょうか。当時の美容本『都風俗化粧伝(みやこふうぞくけわいでん)』には、“不海苔(ふのり)”と“うどん粉”を使った洗髪法が紹介されています。
作り方は簡単。ふのりを熱いお湯につけてよく溶かし、そこにうどん粉を混ぜるだけです。髪によくすりこみ、もみ洗いし、熱いお湯ですすぎ、最後に水でよく洗い流すと、髪の脂と臭いが取れるだけでなく、髪にツヤも出たといいます。洗髪するのは、月に1~2回。半日がかりの大仕事でした。
髪が乾いたら、リラックスタイムもつかの間、再び髪をハードセット。大きさを出すためにクジラのひげを仕込んだり、好きな形に成型しながら、鬢付け油でガッチリ固めます。髪型が崩れないように、夜は箱枕を首にあてて寝ていました。おしゃれは我慢といいますが、江戸女性のおしゃれ根性を前にしては、本当に頭が下がる思いです。
洗髪の様子。手前にはぬか袋、櫛払い、解き櫛、手ぬぐいなどが置いてある。 江戸名所百人美女 今川はし/三代 歌川豊国、こま絵 歌川国久 1858年
余談ですが、日本髪が華やかさを極めた17世紀中ごろ、ほぼ時を同じくしてヨーロッパの王侯貴族の間でも髪型のボリュームはどんどん盛り上がり、フォンタンジュという華美なスタイルが登場しました。ヨーロッパの盛り髪はウィッグが基本。一方、すき毛やつけ毛をかなり使うものの、できる限り地毛で賄おうとする日本髪は、世界的に見てもやはりユニークで大変な手間を要するスタイルだったといえます。
取材協力:ポーラ文化研究所 学芸員 富澤洋子
ポーラ文化研究所は、化粧を美しさの文化として捉え、学術的に探求することを目的として1976年に設立。以来、化粧文化に関する研究活動を行い、ホームページや出版物、調査レポート、展覧会などのかたちで情報発信しています。
https://www.cosmetic-culture.po-holdings.co.jp/culture
Text by GOROKU Miwa
Edit by HATTORI Madoka
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