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歴史から忘れられたスリランカ人女性建築家 ミネッテ・デ・シルヴァ

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かつて、世界で最も有名な女性建築家の一人であったミネッテ・デ・シルヴァ。彼女の二番目の設計となる屋敷は、スリランカ最大の都市コロンボにあるアルフレッド・ハウス・ガーデンズにあります。その緑豊かな通りは、コロンボの目抜き通りであるゴール・ロードの排気ガスから逃れるかのようにひっそりと佇んでいます。

 

屋敷は円柱で持ち上げられるように建てられ、大理石の境界壁と木の葉模様のパターンがデザインされた鉄の門で囲まれています。門には黄色いセイヨウキョウチクトウとブーゲンビリアの赤い花がしだれかかり、まるで家を覆い隠すかのようです。この屋敷は、1952年にデ・シルヴァ一家と親しい付き合いのあったピエリス家のために建てられました。門の奥に足を踏み入れると、広々とした中庭や、緑あふれる池付きのポーチ、そして壁に囲まれた庭園があります。それらの空間はすべて、ミネッテ・デ・シルヴァ建築の特徴とも言えるものです。現在駐車場になっているスペースはかつて2倍の広さがあり、憩いの場として使われていました。階段を上がり2階へ行くと、いくつかの寝室とキッチンがあります。

 

「これらの寝室は、昔はチーク材の食器棚で仕切られただけの、一つの大きな部屋でした」。この屋敷の所有者の息子であるプリアンガ・ピエリスは過去を振り返って話します。「天井を風が吹き抜けるように設計されていたのです。子どもの頃は、仕切り越しに妹に話しかけたものでした」。

 

現在隣の家で暮らしている妹のマルカンティ・ペレラは、次のように述懐しています。「デ・シルヴァさんは、空間をうまく使いこなす、卓越したセンスを持っていました。何一つ無駄にはしませんでした」。ペレラの話を聞いていると、削岩機のけたたましい音が、庭の木々を越えて聞こえてきました。この地域でまた一つ高層マンションが建てられることになり、ペレラの家の真裏で建造が始まっています。現在およそ6万人の人口を抱えるコロンボでは、開発のスピードが凄まじく、アルフレッド・ハウス・ガーデンズにある上品な屋敷の数々は、次々と高層マンションに追い込まれています。デ・シルヴァが設計したこの屋敷も、数少ない生き残りの一つです。

 

その一方、デ・シルヴァがスリランカ第2の都市キャンディに持っていたスタジオは、今では廃墟となっています。その無残な姿は、かつては注目の的であった彼女の功績が、後年いかに無視され続けてきたかを物語るかのようです。

 

改革派の政治家の父と女性参政権論者の母の間に生まれ、近代建築の巨匠と言われるル・コルビュジエとも親しい付き合いのあったミネッテ・デ・シルヴァは、スリランカ初のモダニズム建築家であり、王立英国建築家協会に名を連ねた初のアジア人女性でした。

 

デ・シルヴァは父の反対を押し切り、天職とも言える建築の道に進むため、まずムンバイに移り住み、それから戦後のロンドンに留学しました。そして建築家協会の一員となったデ・シルヴァは、シルク製のサリーで身を包み、荷物持ちの男子学生たちを引き連れて歩くなど、そのエレガントさから一目置かれる存在になりました。

 

彼女は人とは違う自分の属性−−−エキゾチックな容姿や建築家協会でのユニークな立場−−−を逆手に取り、上流階級での存在感を高めることに成功しました。デ・シルヴァはまたたくまに1940年代の「イット・ガール」になったのです。交友範囲はル・コルビュジエだけにとどまらず、アンリ・カルティエ=ブレッソンやピカソ、ローレンス・オリヴィエらとも付き合いがありました。彼女は生涯結婚することはありませんでしたが、後年、ある友人に「世の中で夫が役に立つことがあるとすれば、荷物を持つ時くらいね」と打ち明けていたそうです。

 

1948年のスリランカ独立後、デ・シルヴァは故郷に戻り、家族がキャンディのセント・ジョージズに持っていた屋敷にスタジオを構えました。当時、個人建築家として起業していた女性建築家は、彼女を含めて世界で二人しかいませんでした。

 

以後、デ・シルヴァは小さなコテージから大邸宅、そしてアパートメント施設まで、ありとあらゆる建築を設計していきます。モダニズム建築をスリランカの風景と調和させ、伝統技術を取り入れるやり方が彼女のトレードマークとなりました。

 

コロンボで初めて手がけたピエリスの屋敷にも、彼女の特徴がよく表れています。海老茶色で筋模様の入った、艶のあるラッカー塗りのバラスター(手すりの小柱)や金色の木の葉のパターンは、キャンディの伝統を反映しており、ヤシを編んだパネルがはめ込まれた同系色のシンプルなタイル模様のドアは、いかにも彼女らしいデザインです。

 

裕福な家庭に生まれ育ち、世界中のエリートが集まる協会の一員にもなったデ・シルヴァですが、建築を親しい人たちのためだけに捧げたりはしませんでした。彼女は、自らが手がけるモダニズム建築と伝統技術を融合させることで、貧しい工芸職人たちが、その仕事で十分に食べていけるようにしたいと考えていたのです。

 

1950年、デ・シルヴァはキャンディの公務員用住宅開発計画に携わることになりました。彼女の計画は非常に画期的なものでした。デ・シルヴァはまず、未来の住人たちと、彼らがどのような暮らしを望んでいるのか話し合い、得た情報を元に異なるタイプの家を設計しました。時には住人たちにも建築現場で一緒に作業してもらうことさえありました。このような参加型のアプローチは、時代を何十年も先行するものでした。

 

また、デ・シルヴァは、編み枝細工や漆喰塗りといった地元に伝わる技術を積極的に試していました。それだけでなく、環境に配慮したエコハウスに現在幅広く使われている練り土工法も、いち早く取り入れていました。それらの手法を使って作られた建築の一つに、ミセス・CF・フェルナンドの依頼で設計されたフェルナンド・タウンハウスがあります。

 

コロンボの少し南に位置するこのフェルナルド・タウンハウスは、コストを抑えた建築を求めていたデ・シルヴァの成果が実った結果でした。1955年の記事の中で、デ・シルヴァは次のように記しています。「コロンボのような人口過密地域では、もはや広々とした庭や、柱に囲まれた涼しげな玄関ホールを作ることは不可能です。建築の方向性を改める必要があるでしょう……」。

 

コンパクトなキューブ型のフェルナルド・タウンハウスは、中央階段とベランダ、そしてドアの通風孔と天井から、風が吹き抜ける構造になっています。平均気温30度以上、湿度90%に達するこの町では、このような設計が欠かせません。

 

「デ・シルヴァさんはとても親切で、聡明な女性でした」。今でもタウンハウスで暮らすミセス・フェルナンドは、ダイニングテーブル越しにそう語ってくれました。近くにある中央階段は、安価でも美しい艶のあるサテンの木で作られ、まるで階段を伝って日光が部屋に流れ込んでくるようです。「彼女はこのタウンハウスを何度も改築してくれましたし、費用も抑えてくれたのです。非常に協力的でした」。

 

このように卓越したビジョンを持っていたにもかかわらず、デ・シルヴァが建築に与えた貢献が認められたのは、かなり時を経てからのことで、中には積極的に認めたがらない人たちもいました。現在スリランカ建築のパイオニアとして名前を知られているのはジェフリー・バワですが、彼女はその10年も前から数々の建築を手がけていました。作家で建築家でもあるデヴィッド・ロブソンも指摘していますが、バワが世界に知られる傑作を作ることができたのは、欧州のモダニズムとスリランカ伝統の建築技法を融合させるという、デ・シルヴァの先進的な試みがあったためなのです。

 

当時、デ・シルヴァが女性であることで、彼女の設計を信用しようとしないクライアントや建設業者もいました。ピエリスの屋敷を設計した際も、建設業者は彼女がロンドンのエンジニアから保証を得るまで、施工を承認しようとはしませんでした。「男性優位の業界だったのです」そう話すのは、かつてバワとデ・シルヴァ両方と親しい付き合いのあった建築家C・アンジャレンドランです。

 

こうした環境が、彼女の態度を硬化させていきました。「この業界では、女性は非常にめずらしい存在でした」。ミセス・フェルナンドの息子チャリスはそう語ります。「彼女は自己主張の強い人でした。職人たちとも渡り合っていましたよ。無意味な言いがかりも、受け流そうとはしませんでした」。

 

しかし、このように気丈に振る舞うデ・シルヴァに、世間は「厄介な女性」というレッテルを貼るようになりました。1950年代に集中的に設計を手がけて以来、デ・シルヴァにくる仕事の依頼は激減し、反対にバワの人気は一気にアップしました。初期にバワの近くで働いていた建築家のイスメス・ラヒームは、デ・シルヴァが「私に仕事がこないのは、私が女性だから。これまでも自分の仕事をきちんと評価されたことはなかった」と話していたと振り返ります。

 

「当時スリランカのような発展途上国で、女性が男性優位の職業に就くことは、ほとんど不可能でした」とアンジャレンドランは説明します。「女性が仕事の見返りを求めることも同様でした。ですが、彼女はきちんと支払われることを求めたのです」。

 

1996年、スリランカ建築協会はデ・シルヴァにゴールドメダルを授与しましたが、バワより14年も遅れてのことでした。その頃までに、デ・シルヴァは経済的に困窮し、孤独な暮らしを強いられていました。受賞から2年後、彼女はキャンディの病院で誰にも看取られずに亡くなりました。バスタブで足を滑らせたことが原因でしたが、発見されるまでに数日が経っていたと言います。享年80歳でした。

 

デ・シルヴァの死から20年経った今、キャンディにあった彼女のスタジオと自宅は廃墟と化しています。原型をとどめている部分もありますが、木造部分は湿気のために腐食し、天井のパネルも落ちかけています。復元するには緊急の対応が必要です。スタジオのみならず、現存するデ・シルヴァの建築作品も崩壊の危機にあります。キャンディの丘の上に立つ、デ・シルヴァ初の建築である低層の屋敷も、現在の持ち主が取り壊しを検討しています。フェルナンド・タウンハウスは大部分が現存していますが、ミセス・フェルナンドがいなくなってしまった後のことは誰にもわかりません。

 

この先、デ・シルヴァの建築が再び注目されることはあるのでしょうか? アンジャレンドランが1980年代後半に市立の建築大学で教えていた時には、デ・シルヴァの存在が忘れ去られることがないように、彼女の作品をカリキュラムに組み込むように講じていたと言います。彼は晩年のデ・シルヴァを度々訪れていますが、苦悩に満ちた彼女の姿を思い出し、このように話しています。「彼女に会いに行く人は誰もいませんでした。どうしようもなかったのです。彼女は自分自身を孤立させていましたから」。その話の通り、彼女がスリランカで愛されていたという証は、確かにほとんど残されていません。

 

しかし、スリランカでより進歩的な建築を注意して見てみれば、デ・シルヴァの影響が見出せるはずです。例えば国会議事堂の大きく広がる屋根はキャンディ様式で作られていますし、リビングに吹き抜けの室内庭園が設えられている家も、街のあちこちで見受けられます。

 

また、おしゃれなブティック・ホテルや中流階級のマンションでは、手織り物やラッカー塗りや銅製の工芸品などがデザインのポイントに使われていますが、それらの源泉はデ・シルヴァのアイディアにあります。1950年代にはそうしたアイディアは先鋭的なものでしたが、デ・シルヴァはさらに、それらを上流階級と貧しい人たち両方の住宅設計に応用していたのです。

 

そして現在スリランカがさらされている脅威を考えると、デ・シルヴァの思想はいっそう先鋭的なものに感じられるかもしれません。スリランカは最近まで内戦に引き裂かれ、現在も復興が続いています。大規模な開発計画が多くの都市で進行中です。コロンボの港を埋め立てて作られるポートシティー・オブ・コロンボは、ドバイのパーム・ジュメイラを彷彿させ、高級タワーマンション群が建設されることに決定しています。

 

「デ・シルヴァはこの状況を嘆いたでしょう」。そう語るのは、晩年のデ・シルヴァと仕事をした経験のある英国建築家セルヴァ・サンドラプラーガスです。「このような開発は、その土地の歴史や文化、地理への配慮がまったくなされていません。街の伝統を覆い隠し、過去の文脈をすべて消し去ってしまいます。海の中から枯渇させてしまうのです。残る景色は、シンガポールやドバイ、香港とまったく区別がつかないものになってしまうでしょう」。

 

 

*ミネッテ・デ・シルヴァの人生を元にしたシロミ・ピントによる小説『Plastic Emotions』はInflux Pressより2019年夏に出版予定。

 

この記事は、The GuardanのShiromi Pintoが執筆し、NewsCredパブリッシャーネットワークを通じてライセンスされたものです。ライセンスに関するお問い合わせは、legal@newscred.comにお願いいたします。

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