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「自立した女性」のパイオニア 19世紀の天才音楽家クララ・シューマン

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私がクララ・シューマンの作品を知ったのはわずか1年前のことでした。キッチンテーブルで友人たちと音楽を聴いていると、彼女の「スケルツォ第2番」が流れてきたのです。燃え上がる炎のようなこの楽曲に私はすぐさま魅了されましたが、誰の作品だかわからず、友人に尋ねました。クララ・シューマンという名前なら、もちろん聞いたことがありました。彼女は19世紀ドイツのピアニストで作曲家です。しかし多くの人と同じように、私は彼女のことをロベルト・シューマンの妻としてしか認識していなかったのです。そこで私は、彼女についてもっと調べようと決心しました。

 

クララ・シューマンのことを知るうちに、私は彼女により深い想いを抱くようになりました。そして、当時の彼女はまるで、いまで言うビヨンセのような存在だったのではないかと思い始めたのです。ビヨンセと同じく、クララは成功したアーティストであり、育児と演奏ツアーを両立し、同業の音楽家であるパートナーを持ち、そして何より自立した女性でした。クララの生涯を辿りながら、私はまず、彼女がピアニストとしての多忙なキャリアを長期にわたり維持していたことに感銘を受けました。彼女は幼少期から老齢になるまで演奏を続けていたのです。その間に結婚して子どもを8人もうけますが、夫のロベルトは次第に精神を病むようになり、まだ40代のうちに施設で亡くなってしまいます。また、彼女の子ども時代も過酷なものでした。父親のフレデリック・ヴィークはクララに厳しいピアノ教育を施し、コンサートピアニストに育て上げました。男性が圧倒的に優位だった当時の音楽界においては、特にハードな経験だったでしょう。彼女はまだほんの小さな子どもの頃から、毎日数時間もピアノの練習に励み、幼少期のほとんどを父親との演奏旅行に費やしました。

 

夫ロベルトとの出会いは、彼がクララの父親に師事したことがきっかけでした。2人は恋に落ちましたが、父親が結婚を許さなかったため、手紙を交わし合い、密会を重ねるようになります。そして1840年、クララが21歳になる前日に2人は結婚しました。彼女がまだ若いうちにこれほど多くのことを成し遂げてきたことを考えると、現在23歳の私は思わず気が遠くなってしまいます。クララは当時、「ピアノ・コンチェルト」を含めてすでにいくつかの作品を作曲し、人生の半分以上をコンサートピアニストとして生きていたのです。

 

実際には、クララの作品のほとんどは夫に贈るために作曲されたものだったようです。ロベルトは作曲するようにクララを励まし、また彼女に自分の作品の編集作業を手伝ってもらっていたといいます。クララの作品には確かにロベルトの影響がうかがえますが、彼女独自の個性もはっきりと感じられます。またクララは、彼女と同様に私のヒーローであるブラームスの影響も受けていると指摘する人もいますが、ブラームスと出会うずっと前から作曲を続けていました。ですから、ブラームスがクララ・シューマンの影響を受けているという可能性も考えられるのではないでしょうか。

 

今回デッカ・クラシックスでデビューするにあたり、私はクララ・シューマンの曲に特化したアルバムをレコーディングすることに決めました。過去の録音や譜面を通じて彼女の作品を掘り下げていくなかで、素晴らしい楽曲をいくつも見つけたからです。しかしそれらが現在のコンサートホールで演奏されることはまれで、私も今までほとんど聴いたことがありませんでした。そこで、私がクララ・シューマンを取り上げることで、他のピアニストたちがもっと彼女の作品を演奏し、コンサートでもプログラムに組み込むようになってほしいと考えたのです。アルバムには、彼女の作品のなかでおそらく最も知られている「ピアノ・コンチェルト」や、私がクララの音楽世界に夢中になるきっかけとなったあの鮮烈な「スケルツォ第2番」、そして彼女の存命中には発表されることのなかった、美しく魅惑的な「ピアノソナタ ト短調」も収録されています。

 

私は先日、クララ生誕の地であるライプツィヒを訪れ、彼女とロベルトが結婚後4年間を過ごし、現在は博物館になっているシューマン・ハウスを見学する機会に恵まれました。その家は、クララが9歳の時にコンサートデビューを果たした、かの有名なゲヴァントハウス・コンサートホールからほど近いところにあり、かつてはバルコニーからでもホールが見渡せたのではないかと思います。また現在、シューマン・ハウスの隣には音楽学校があり、校庭にはウィンドチャイムが設置されていました。このように、この地は今でも音楽に溢れていることがわかります。

 

クララがロベルトと幼い子どもたちと暮らした小さな部屋を歩き回りながら、私は彼女のプライベートな生活を垣間見る喜びに浸っていました。また、そうすることで、彼女の作品をより深く理解する助けを得られたと思います。博物館にはクララの手を模した彫像や、彼女のいとこが製作したというピアノ、そして演奏旅行中に身につけていたと言われているドレスが展示されていました。驚いたのは、身長が低くスレンダーなクララの手が、非常に大きかったことです。彼女の作品のなかには演奏するのに特別なテクニックを要する楽曲があるのですが、その理由がやっとわかりました。私の手は彼女よりもやや小さいため、鍵盤を跳ねるように弾く必要があったのです。「ピアノ・コンチェルト」はまさに技術面での難易度が高く、音楽的にも興味深い作品なのですが、なんと彼女はこの曲を14歳の時に書いています。また、クララのピアノに触れさせてもらったことで、それぞれの楽曲が彼女には実際どのように聞こえていたのかを理解することができました。当時のピアノは現代のものほど堅固な作りではないため、より繊細なタッチで演奏されていたようです。

 

2019年9月13日はクララ・シューマン生誕200年だったのですが、私はバースデー・コンサートのために再びライプツィヒを訪れました。改装していたシューマン・ハウスの再開を祝うイベントにて、かつてクララが弾いていた、例のいとこが作った「ヴィーク家」のピアノで演奏したのです。その夜には、ゲヴァントハウス・コンサートホールでも、アンドリス・ネルソンス指揮によるクララとロベルト・シューマンのコンサートが開催されました。この生誕イベントをきっかけに、クララのみならず、他の女性作曲家たちの作品にもっと世界が注目することを私は願っています。なぜ、彼女の楽曲はこれまで多く演奏されてこなかったのでしょうか──? それは作品のクオリティが低いからではありません。女性作曲家の作品は、男性作曲家たちと比べて演奏される機会がずっと少ないという事実があるからなのです。演奏されることがあったとしても、そのほとんどは女性のピアニストによるものです。私はこうした状況の改善を強く望んでいます。クララの音楽はすべての人たちに開かれているはずですし、女性も男性も等しく彼女の作品を演奏するようになってほしいと思います。クララ・シューマンはクラシックの歴史における傑出した音楽家であり、より多くの人に聞かれるべき存在だと言えるでしょう。

 

 

この記事は、The GuardianのIsata Kanneh-Masonが執筆し、NewsCredパブリッシャーネットワークを通じてライセンスされたものです。ライセンスに関するお問い合わせは、legal@newscred.comにお願いいたします。

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