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香りが記憶を呼び寄せる 嗅覚の不思議と脳科学

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「私は何気なく、お茶に浸してやわらかくなったひと切れのマドレーヌごと、ひと匙の紅茶をすくって口に持っていった。ところが、お菓子のかけらの混じったそのひと口のお茶が口の裏にふれたとたんに、 私は自分の内部で異常なことが進行しつつあるのに気づいて、びくっとした。」(マルセル・プルースト『失われた時を求めて』鈴木道彦訳)

 

これは文学史のなかで最も画期的かつ影響力のある文章のひとつで、遥か昔の、ほとんど忘れていた過去を突然呼び起こす知覚経験について表現したものです。フランスの作家マルセル・プルーストにとって、古い記憶を手繰り寄せるきっかけになったのは、紅茶に浸したひとかけらのマドレーヌの味でした。プルーストが1913年に発表した小説『失われた時を求めて』に記したこの伝説的な文章は、のちに「プルースト的瞬間」という名前がつくほど有名になりました。

 

しかしこれからご紹介する生物学者と嗅覚ブランディングの専門家よれば、この文章で扱われている知覚は、実は味覚ではなく嗅覚だと言うのです。

 

神経科学的に考察すれば、それは決して驚くべきことではありません。ハーバード大学レイモンド・レオ・エリクソン生命科学教授で分子細胞生物学部長のヴェンカテッシュ・マースィーは、脳の解剖学的構造を見れば、匂いと記憶が密接に関係していることがわかると指摘しています。ハーバード大学自然史博物館が大学の脳科学イニシアティブとの協力で主宰したパネルディスカッション「科学と社会における嗅覚」で、マースィー教授は観衆に向けてこうした嗅覚の働きについて詳しく説明しています。

 

匂いを処理しているのは、脳の前方に位置する嗅球という組織だそうです。嗅球は、中枢コマンドとして運動時の循環調節を担うその他の脳領域に情報を送り、より高次の処理が可能になります。扁桃体や海馬を含む大脳辺縁系は感情や記憶を司る領域なのですが、つまり匂いはここに直接到達できる回路を持っているのです。マースィー教授は「嗅覚信号は即座に大脳辺縁系に届きます」と話しています。

 

教授の研究所では、陸生動物における匂い誘発行動の神経およびアルゴリズム原理を研究していますが、プルーストの描写では、実は食べ物の味自体も重要な働きを示しているとマースィー教授は指摘しています。

 

教授によれば、咀嚼することで食べ物の分子が「口の中で鼻腔を抜け、嗅上皮に届く」のだそうです。つまり私たちが「味だと感じているものは、本質的には匂いだということになります。美味しい料理を口にし、複雑な味を楽しんでいるとしても、実は感じているのは匂いなのです」。自分でそれを確かめたい場合には、バニラやチョコレートのアイスクリームを食べながら鼻をつまんでみると良いそうです。風味がわからなくなり、「ただ甘さだけ感じるはずです」。

 

匂いが持つ機能をどうしたらうまく活用できるのか、個人の間でもビジネスにおいても、これまで数十年に渡り模索され続けてきました。たとえば元恋人がつけていた香水のことを考えれば、匂いのパワフルさがわかるかと思います。1950年代には、「アロマラマ」や「スメロヴィジョン」など、映画館で内容に応じた匂いを充満させ、観客をより深く物語に没頭させるシステムもすでに取り入れられていました。こうした技術は現在では、振動するシートや風、雨、匂いなどと共に映画を体験できる4DXシステムに見ることができます。また数年前には、ハーバード大学の科学者デイヴィッド・エドワーズが、写真やメッセージと共にiPhoneで香りを送れる新しい技術を開発しています。

 

家庭用、オフィス用のアロマも大きなビジネスになっています。2018年の「ハーバードビジネスレビュー」誌によれば、特に嗅覚ブランディングは様々な業界をまたいで注目を集めており、オリジナルの香りを部屋やロビーに利用しはじめているホテルもあるそうです。「類似の企業がひしめき合う時代に、他社との差別化を測ることは難しい。自社ブランドを際立たせるには、感情や記憶を利用する必要があるだろう。顧客の印象に残るブランドを確立するために、香りをどのように活用できるかぜひ考えたいところだ」。

 

この原理をよく理解しているのが、「嗅覚ブランディング会社」である「12.29」を立ち上げ、芳香ディレクターを務めるドーン・ゴールドワームです。12.29は、人の本能に訴えることができる、芳香の力を利用したブランド構築を提案しています。空調システムや単独のマシンを通じて、クライアントが使用しているビルにアロマを取り入れることでブランドイメージを作り上げるのです。

 

ゴールドワームの顧客のうち最も著名な企業のひとつは、スポーツメーカー界の巨人とも言えるナイキです。12.29のウェブサイトで、ゴールドワームはナイキオリジナルの芳香を作る上で、バスケットシューズのソールがコートに擦れるゴムの匂いと、サッカーのスパイクシューズで駆け回る芝生と土の匂いにインスピレーションを得たと説明しています。また彼女は、自分の使命を「ブランドと消費者の間に、即座に印象的な関係を築かせる」ことだとも話しています。

 

ゴールドワームは会社を立ち上げる10年前から、セレブリティを相手にオリジナルの香水をデザインしてきました。彼女は調香師になるための学校で5年間フレグランスについて学び、その後ニューヨーク大学で嗅覚ブランディングについての修論を書き、修士号を得るなど科学にも精通しています。

 

先述したパネルディスカッションでスピーカーを務めたゴールドワームは、子宮の中にいる胎児の感覚器のうち、唯一完全に成熟しているのは嗅覚器官であり、視覚に移行する10歳までの間に最も発達すると説明しています。また、「匂いと感情はひとつの思い出として記憶されるため、匂いに対する好き嫌いの基本は幼少期に確立されることが多い」とも話しています。

 

さらにゴールドワームは、人々は匂いと色を結びつける傾向があることを指摘しています。彼女は会場にいる人々に香りを染み込ませた紙片を配りました。観衆は柑橘系の香りからオレンジ、黄色、緑を連想しましたが、それは一般的な意見と一致しています。瑞々しい草の香りがするベチバーに対しては、緑と茶色といった色が連想されていました。

 

マースィー教授もゴールドワームも、鼻の怪我には気をつけて欲しいと訴えています。鼻の中ある板状の骨は、脳に次々と匂いの信号を送る嗅球とつながっているのですが、とても脆く、頭部を損傷した時に剥がれてしまう可能性もあるそうです。すると無嗅覚症になり、匂いが完全にわからなくなる恐れもあるとマースィー教授は指摘しています。

 

ゴールドワームは「自転車に乗ったり、エクストリームスポーツを楽しみたい場合には、ぜひヘルメットを着用してください」と話しています。

 

また、歳を取ることで匂いを感じなくなることもあるそうです。しかし嗅覚は身体にとっての筋肉と同様、日々鍛えることで復活させることも可能だとゴールドワームは付け加えています。その場合はもちろん、ダンベル運動ではなく匂いを嗅ぐことがトレーニングになります。

 

「匂いに意識的になるようにしましょう。たとえば街を歩いている時に、どんな匂いがするのかに注意を払ってみてください。嗅覚は使えば使うほど、鋭くなるのです」。

 

 

この記事は、Medical Xpressが執筆し、NewsCredパブリッシャーネットワークを通じてライセンスされたものです。ライセンスに関するお問い合わせは、legal@newscred.comにお願いいたします。

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