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オリジナル短編小説『朝』 第3話

花々が茎や葉、根で作られるように、私たちも一つひとつの記憶や経験、生き方でつくられる。独特の文体で知られる芥川賞作家・小山田浩子が書き下ろしたのは、花にまつわる記憶とともに新しい朝へと向かう、一人の女性の物語。出会うすべてのことを栄養にしながら、自分を信じて前へ。第3話は、ゼラニウム。
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それで、ここにはゼラニウムを。母は庭で言った。ゼラニウムってなあに? 私は訊いた。ハーブ、 1本の茎に花がいっぱいついてピンクや赤の陽気な花束みたいな、いい匂いするの、猫が苦手なんだって、ゼラニウム。ゼラニウムを猫が苦手なの? ゼラニウムが猫を苦手なの? 混ぜっ返さないでよ……母は笑う。あのね、猫はね、匂いが強いハーブは苦手なんだって、ミントとかラベンダーとかもいいみたい。ミントとラベンダーも、猫を苦手なの? それとも猫がミントとラベンダーを……
だから、もう、混ぜ返さないでってば。母はまた笑う。お母さんも猫は好きだけど、庭を掘り返されちゃ、困るから、だからこうぐるっとハーブを植えようと思う、今年は。
猫の額と母が言う家の庭は、去年の春に耕され小さい菜園になった。種や苗のため柔らかくした焦げ茶色の土はどうも近所の猫たちのお眼鏡にかなったようで、子供の私はもちろん、猫ちゃんはかわいいと思うばかりだったけれど。本当はね、猫が好きなハーブもあるんだって、園芸カタログを見ながら母が言う。キャットミント、キャットニップ、ええと、ここにはなにを植えたんだっけ、母は土に植物の名前の札を刺さない。失礼じゃない、なんか、招いて来てもらったお客さんに名札つけさせるみたいで。母の目を盗み、種を待つふかふかの土に私も寝転がってみる。服に髪に土がつく、いいや大丈夫、だってこれは毛皮で耳で、みるみるぴんとしたヒゲが生えて、首に鈴、まだここにはゼラニウムはなくて、空気にはご飯の匂い、あくび、見上げる空が奥の方から暗くなっていく。星が光り始めた。風が冷え、毛皮がふくらみ、家の前の道を走る車のライトが長く粘ついて伸びる。犬の遠吠えが聞こえる、1 匹じゃない、ほかの猫の声もする、こんにちは、こんばんは、おや新入りですか。いいえずっとここにいたんです。それじゃあ箱入りの家猫ってわけですか。そうですね、でもそうでもないのかも、どこへだって行けるし行けたんですけど、でも私ここにいたんです。土は柔らかくうっすら暖かく、またあくび、私は尻尾を揺らし、尻尾って自分の意思で動かせるんだと驚いて、そして私を呼ぶ声に起き上がって伸びをしてまたまたあくび、迎えに来た腕に抱かれて喉を鳴らし、喉ってこうやって鳴らすんだよ、ねえお母さん、知っていた?
Novelist 小山田浩子/Hiroko Oyamada
1983年広島県生まれ。2010年「工場」で新潮新人賞を受賞し小説家デビュー。2014年「穴」で第150回芥川龍之介賞受賞。2018年には15作品を収録した、短編集「庭」を刊行。独特の文体で紡ぎ出される作品は海外でも高い評価を受け、さまざまな国で翻訳・出版されている。
Photographer:Jun Imajo
Flower:Michi Hayashi
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