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オリジナル短編小説『朝』 第7話

花々が茎や葉、根で作られるように、私たちも一つひとつの記憶や経験、生き方でつくられる。独特の文体で知られる芥川賞作家・小山田浩子が書き下ろしたのは、花にまつわる記憶とともに新しい朝へと向かう、一人の女性の物語。出会うすべてのことを栄養にしながら、自分を信じて前へ。第7話は、睡蓮。
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受験勉強をしていると、窓の外から母の声がした。ねえねえ、邪魔して悪いんだけど、睡蓮が咲いたよ! 外に出るとまだ朝なのに日差しが強い。暑い。この藍色の鉢を物置で見つけてちょうどいいと思って植えてみたんだけど、大成功。母は得意そうだった。数日前につぼみがついて、いつ咲くかやきもきしてたんだ。廂の影になるところに置いてある鉢には切れこみのある丸い葉っぱと、白くて中心がほのかにピンク色がかった花が浮かんでいる。これって根っこがどうなってるの、浮き草みたいに浮いてるの? ううん、根っこは鉢ごと、この一番下に沈めてあって、茎が上まで伸びてるの、不思議でしょ、花は夜になると閉じて朝になると開くらしいよ。顔を近づけると水は夜のように黒い。小さな光がすいすい動いている。メダカ、園芸屋さんがサービスってくれたの。目が銀色のメダカを数えたが、浮かんだり沈んだりしてよくわからない。丸い葉っぱの縁を赤い小さい虫が歩いていた。どこから来たのか、血を 1 滴落としたように真っ赤でまん丸い、小さすぎて手足も触覚もなにもわからない。葉の外周にそって、切れこみのところも丁寧になぞってぐるぐるぐるぐる回っている。指を水につけ水滴を虫に向かって垂らしてみたが、空中ですうっと曲がり、一見平らに見える葉っぱの真ん中に落ちた。世界が小さく丸ごと逆さに映った水はすぐに切れこみからこぼれ鉢全体の水が揺れた。メダカがぷつんと息を吐いた。しばらく眺めて立ち上がった。頭がくらっとした。ごめんごめん、勉強の邪魔して。ううん、いい気分転換になった、ありがとう。家に入り 2 階に登りトイレに入る。1 階のトイレは白くて新しいが、2 階のは床と壁が古びた青と白の小さいしずく型タイルで覆われている。電気をつけずにいるとまるで冷たい深い水の底にいるような気分になって、ときどき私は参考書を持ちこみ長居した。日差しがタイルに反射し天井に閃き何匹もの魚になり英単語と公式と哲学者たちの名前をついばむ。葉緑体、液胞、核膜核小体染色体、 1 粒の種 1 滴の水 1 人の私、世界は広くてとても小さい。机に戻るとノートの縁を赤い小さい虫が歩いている。机を横切り窓を越えどこかへ向かってどこまでも歩き続ける。首筋に冷たい水が 1 滴落ちてくる。
Novelist 小山田浩子/Hiroko Oyamada
1983年広島県生まれ。2010年「工場」で新潮新人賞を受賞し小説家デビュー。2014年「穴」で第150回芥川龍之介賞受賞。2018年には15作品を収録した、短編集「庭」を刊行。独特の文体で紡ぎ出される作品は海外でも高い評価を受け、さまざまな国で翻訳・出版されている。
Photographer:Jun Imajo
Flower:Michi Hayashi
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